北海道大学の焼印

道民であれば馴染みが深い北海道大学の校章の焼印を製作しました。実は、私も高校卒業時に北海道大学を受験したことがあります。今から40年近く前になりますが自分の学力では難しいと思いつつも受験しました。元々、理系希望だったので、当時、北海道に理系(化学系)の大学がなく、室蘭工業大学と北見工業大学に工業化学という学科がありましたが、純粋な化学系の大学は北海道大学しかありませんでした。当時は今とは違い、ネットも携帯もない時代の為に、受験後に合格電報を頼んできました。合格電報とは、合格発表が掲示板に出た時点で、確認して申し込んだ各自に電報を送る仕組みで、北海道大学の学生がアルバイトとして行っていました。合格発表の日、電報が届きました。その内容は、「まだ雪深し」とだけ書かれていました。要するに不合格ということです。友人が合格しましたので、合格者には、「エルムは招く」だった事を聞きました。

北海道大学の焼印
北海道大学の校章の焼印

上の写真は製作した北海道大学の校章の焼印です。直径50ミリの大きさで200W電気ゴテ仕様で製作しました。見てもらうとわかる通りに、全体的に線が細く、お客様より最初は30ミリ位の大きさで作りたいとの内容でしたが、30ミリでは、線を太くしないと製作できないために、デザインを変えたくないとのことでギリギリ製作可能な50ミリの大きさでの製作になりました。
誰でも思うことですが、この投稿を書きながら、学生時代もっと真面目に勉強しておけば良かったと考えつつ書いていました。

 

ヒバゴンの焼印

広島県庄原市西城町で1970年に油木地区のダムのそばを走っていた運転手が、道路を横切るゴリラのような目が大きく、毛深い謎の類人猿と遭遇し、その後ダム近辺で、何度か目撃され、ヒバゴンを命名されました。発見された場所が、比婆山という所だったのでヒバゴンとつけられたようです。それからも目撃談は幾つかありましたが、正体が判明しないまま現在に至っています。今でも地元では、ヒバゴンネギやヒバゴンのキャラクターがあります。ヒバゴンは二足歩行する類人猿で、黒っぽい、濃い茶色の毛で覆われており、身長150cm前後と小柄で、推定体重85kg程ではないかと言われています。ヒバゴンは、年老いた猿が群れから離れた姿ではないか?、ツキノワグマを見間違えたものではないか?誰かがブームを狙って作ったものではないか?等、色々言われてきましたが現在も真相は闇の中です。

上の左の写真は、製作したヒバゴンの焼印印面です。鋳造が終わりすぐに写真を撮ったためにお尻の部分と枠の一部分に白く見えるのは石膏系埋没材の跡です。後ほど、ブラシで洗浄して取り除きました。右の写真はシナベニアの木板に試し押ししたときの画像です。ヒバゴンのギョロリとした目とお尻と手足の部分が印象的です。丸い枠が二重線になっていますが、製作できるギリギリの太さで余白部分を作りました。ヒバゴンの焼印は、40ミリの大きさで、150W電気ゴテ仕様で製作しました。

 

広陵町の焼印

奈良県の広陵町様より町内にある、ふるさと会館グリーンパレスの焼印製作を依頼されました。広陵町は、奈良県北葛城郡にあり、人口約35000人の町です。町内に古墳がたくさんあります。巣山古墳は、上空から見ますとカギ穴のように見える大きな前方後円墳で、約220m✖112mあり、国指定特別史跡になっています。勾玉や管玉などの玉類や埴輪、石斧等が出土しています。牧野古墳(ばくやこふん) という古墳時代後期に出来たと思われる古墳もあり、銀で飾り付けられた太刀や各種玉類が出土しており、舒明天皇の父親、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の成相墓(ならいのはか)ではないかと言われています。他に、三吉石塚古墳、新木山古墳、新山古墳と沢山の古墳があります。
又、竹取物語で有名な、竹取翁やかぐや姫が住んでいたところは、現在の広陵町だと言われており、町内には、滑り台や遊戯施設のある竹取公園もあります。

グリーンパレスの焼印
広陵町のグリーンパレスの焼印

上の写真は、広陵町のふるさと会館グレーンパレスの焼印試し押し画像です。大きさは40ミリ程で100W電気ゴテ仕様で製作しました。書体に細い線が含まれていますので、その分鋳造は大変でした。ふるさと会館は会議施設や宿泊施設、地場産品の展示販売所を持っており、地場産業の振興や、女性の福祉向上等の活用されている公共施設です。

櫛の焼印

小樽の隣町にあります余市町の佐々木つげ工房様の焼印を作りました。佐々木さんは、薩摩(鹿児島)から北海道にいらしてつげの櫛やブラシを作っている職人です。つげの櫛を主に作っていますが、道産材のオンコや胡桃、槐の木をつかった櫛も製作しております。鹿児島には、伝統工芸品として有名な薩摩つげの櫛があります。つげの木は生長が遅く、年輪の幅が狭いことから、木質がきめこまかく、弾力性があり櫛に向いている素材です。昔から、薩摩地方では、女の子が生まれるとつげの木を植える習慣があり、薩摩つげの櫛は、嫁入り道具に欠かせないものでした。
薩摩つげの櫛は、江戸時代から全国各地に販売され、「櫛になりたや薩摩の櫛に諸国の娘の手に渡ろ」と歌いながら行商され広がったそうです。

櫛の焼印
ニッカのデザインの焼印

上の写真は、佐々木つげ工房様からご依頼いただきました櫛に押すための焼印です。作った櫛をニッカウイスキー余市で売っていますので、その販売用の櫛に押しています。焼印自体は20ミリ程の小さなものです。
NHKのドラマ「まっさん」で余市も有名になり、ニッカウイスキー余市には、沢山の観光客が来ているようです。ニッカウイスキーの近くには、余市宇宙記念館
(宇宙飛行士の毛利さんが余市出身)や運動公園等があり、又、余市には、色々なフルーツも取れますし、近年、ワイン工房も出来ています。海と山に囲まれている地形ですので、海の幸、山の幸も豊富ですので十分に、休日を楽しむことができますので皆さんも行かれてはいかがですか。余市においでの際は、近くにフルーツパーク仁木もありますので、そちらも行かれたほうが良いと思います。

 

カヤックの焼印

郡山市のバイダルカ様より依頼の焼印を作りました。バイダルカという名前が気になったので調べてみましたら、アラスカからアリューシャン列島にかけて、アザラシ、トド、セイウチ等を狩り狩猟生活をしていた少数民族のアリュート族が使っていたカヤックに対するロシア語読みであることがわかりました。アリュート族のカヤックは、木や獣骨を骨組みにして、そこに獣皮を貼って、接合部に獣脂を塗って防水したスキンボートと呼ばれる種類の船でした。私も体験程度ですが、小樽の忍路という所でシーカヤックを乗った事があります。2人で漕ぐタイプのもので吃水線が水面から近く、スピード感があり楽しい乗り物でした。

バイダルカ様焼印
バイダルカ様依頼の焼印

上の写真は、製作しました焼印の写真です。GPATと書かれていますが、これは、グリーンランドのパドルを操るテクニックという言葉の頭文字をとったものです。パドルとは、カヤックを漕ぐときの櫂の事で、グリーンランドパドルとは、中心部分に丸い持ち手があって、両端が、平らになっていて水面を櫂く構造になっている櫂です。上の画像も中心部分には、カヤックの漕ぎ手が乗っておりその下の凸凹している部分は波を表しており、デザインの下の部分はパドルを表しています。この焼印は、幅60ミリで、200W電気ゴテ仕様で製作致しました。

蹄鉄の焼印

馬の蹄の摩耗や欠損を防ぐために装着するU字型の鉄製の金具が蹄鉄ですが、現在は、プラスチックやゴムなどのものもあり、競走馬ようには、軽いアルミ合金で出来たものもあるそうです。古くは4世紀頃、ギリシャ人が使い始めたそうです。日本では、江戸時代くらいまで、藁で草鞋のようにして作って蹄を保護したものが、蹄鉄に変わったようです。ヨーロッパでは、家のドアや部屋の壁に飾ると魔除けとして効果があると信じられ、幸運を運び込むとも言われています。
一時期、日本でも、車に蹄鉄を模したアクセサリーを付ける事があったそうで、馬は人を踏まないということから、車が事故をおこさないようにと願いお守りにしたそうです。蹄鉄の飾り方もあるそうで、 U字型の開いている部分を上にして(下の写真のような状態)飾ると、幸運が貯まり、逆に下にして飾ると、災いが下の空いた部分から吸い込まれて災いが及ばないそうです。又、前の蹄用と後ろの蹄用に別れている蹄鉄もあり、馬の蹄はひと月で9ミリ前後伸びるので、普通に野山で生活している状態では、蹄の伸びと減り具合が同じ位になるので、蹄鉄を付ける必要はありませんが、競走馬のように、頻繁に走る場合には、蹄鉄が必要で、馬の足の前後左右での蹄鉄の減り具合も違うために、定期的に付け替えが必要だそうです。

蹄鉄の焼印
蹄鉄をデザインした焼印

蹄鉄焼印の解説

上の写真は蹄鉄をデザイン化した焼印を木板に試し押した画像です。蹄鉄を蹄に打ち付ける為に釘穴を丸い輪で表しています。木製のキーホルダーヘットに押して使用するそうです。大きさは、20ミリで、80Wの電気ゴテ仕様で製作しました。

その他の蹄鉄デザインの利用

蹄鉄のデザインは色々な物に使われており、ネックレスや指輪等の宝飾品やネクタイのループタイ、蹄鉄の形をしたグッズを飛ばすゲームまであります。
上の写真の場合もそうですが、蹄鉄の釘穴は7つあるものが、ラッキー7と称してギャンブルの運を高めるお守りになるそうです。もっとも、効果はわかりませんが?

蕎麦屋の焼印

福岡にあります宗右ェ門という蕎麦屋さんの焼印を製作しました。蕎麦屋さんからの製作以来はちょくちょくあります。どこに押すのかはわかりませんが、延棒やまな板に使っていると思います。

そば屋の焼印
宗右ェ門というそば屋さんの焼印

焼印の解説

上の写真は50ミリ程の宗右ェ門というお蕎麦屋さんの焼印です。直火式の仕様で作りました。歌舞伎ど使うような書体です。右横にそば処という文字が入っていますが、そばの「ば」の文字の濁点が強く焼印を押すとつぶれてしまいますので、試し押しの時、あまり意識しすぎて左の下の方に少し強く押しすぎたせいか
「右ェ門」の文字が濃くなりすぎています。この辺の微妙な力加減が焼印を押すときの難しさです。

私の好きな蕎麦屋さん

私も蕎麦が好きなので、遠くまで食べに出ることがあります。私の好きな蕎麦屋は、倶知安にあります。農家のそば屋羊蹄山という店ですが、私の住んでいる小樽市からは、国道393号線を使うと1時間30分位で着く距離の所にあります。ここは、農家のそば屋と言うだけあって、そばも自分の畑で育てて収穫したものを石臼でひいて、そばを打つ100%自家製のそばです。又、水が命と言われるそば打ちですが、100名水にも選ばれる羊蹄山の湧水を使用していますので、味も絶品です。私のお勧めは、十割そばです。只、休日になると込み合いますので時間をずらして食べにいった方が良いかと思います。そば屋の駐車場の側には、湧水でできた沼があり、貸ボートもありますし、近くにはパン工房やソーセージ等を作っている工房もありますので、十分楽しむことが出来ると思います。遠方で直接行くのが難しい方には、そば粉や蕎麦のセット、そば茶等も販売していますので、購入頂き楽しむ事も出来ると思います。
羊蹄山の麓近くには、名水を使った蕎麦屋さんが沢山ありますので、ご自分にあった蕎麦屋さんを探すのも良いかと思います。

 

道場の焼印

徳島県にあります剣道場の清風館道場の焼印を作りました。清風館道場の館長は久保さんという方で、スポーツ少年団指導員資格教士7段(日本体育協会が認定する、地域における団として活動する中心的指導者としての活動、運営にあたる認定資格)、全日本剣道連盟公認社会体育上級指導員(受講資格が年齢40歳以上で、剣道錬士6段以上で全剣連社会体育指導員剣道中級認定後4年以上を経過した者)、の資格を持ち、優しく、丁寧に、正しく、楽しく、仲良く稽古できる環境で、モットウは、よく見る、よく聞く、よくやるの指導精神であたる事で、合言葉としているものは、一期一会だそうです。

左の写真は、道場名の焼印です。流れるような筆文字風の書体です。
右の写真は、もう一本製作しました、一生一打の焼印です。一生一打は、剣道や野球をする人たちがよく使う言葉で、有名なところでは、打撃の神様と言われた元巨人軍の川上哲治さんが、張本勲さんに贈った言葉で張本さんの座右の名にもなっています。一生一打の意味としては、一生懸命に努力して、鍛錬し、一打にその全てを込めて打つという意味だと思います。ちなみに、私にも座右の名があります。それは、「艱難汝を玉とす」という言葉です。意味は、大変な事を乗り越えてこそ、成長するというような意味です。

北海道章の焼印

北海道章の入った焼印の製作を依頼されました。私は、北海道に住んでいますので度々見ることがあるマークですが、道外の方には馴染みのないマークだと思います。

北海道章焼印
北海道のマークの入った焼印

上の写真は、北海道章(上の星のような部分)が入った焼印の画像です。
北海道章が現代のようなデザインになる前は、別のデザインでした。
最初のデザインは、北海道開拓使旗と呼ばれる普通の5つの星をデザインにした物でしたが(下の写真左を参照下さい。)、それを黒田清隆が7つ星のデザインに変更して(下の写真中央)、その後、現在のデザイン(下の写真右)にかわりました。

現在の北海道旗に描かれている北海道章は、冬場の厳しい風雪や低温状態を耐えしのび開拓に力を入れてきた先人の開拓者精神と優々しく伸びていく北海道を象徴して作られたデザインです。最上部の焼印のデザインは北海道庁の使用するデザインです。ちなみに北海道の鳥は丹頂鶴(根室地方や釧路湿原に主に生息してり全長140cm、体重10kgと日本でもっと大きな鳥です。)、北海道の木は、エゾ松で、太さが1メートル、高さが40メートルにもなる北海道在来の針葉樹です。黒エゾ松と赤エゾ松があり、赤エゾ松は建材や家具にも利用され、赤エゾ松の質の良さから、ピアノの共鳴板としても使われています。
近年は、北海道の自然に憧れて海外からの旅行者や移住者も多くなり、ニセコ地区のように、外国人が多く住む地区もあり、あらためて、北海道の自然が世界中に知れわたっています。

 

 

大蛇神輿の焼印

東京都世田谷区奥沢の奥澤神社の大蛇神輿に関する焼印を製作致しました。このお祭りの祭神は、誉田別命宇賀魂命という神様で、読みは「はんだわけのみことうがたまのみこと」といいます。世田谷城主、吉良氏の家臣、大平氏が、世田谷城を築きにあたり、守護神として勧請したと伝えられます。例祭の9月14日、15日に、江戸中期より伝えられている厄除け大蛇の特殊祭事が行わる。奥澤神社の社殿は、昭和45年に完成し、尾州檜材を用いて、室町期の様式で作られたもので、都内でも、ここにしかない様式の社殿です。奥澤神社の大蛇神輿は、江戸中期に、奥沢の地に疫病が流行して病に倒れる者が多かったとき、ある夜、村の家主の枕元に、八幡大神が現れて、藁で作った大蛇を村人に担がせて村内を巡航させるとよいというお告げがあったと言う、早速、新しい藁で大蛇を作り村内を巡航させたところ、たちまち疫病が治ったという伝えがあり、大蛇祭りの始まりになったということです。

写真、左は40ミリの白抜き文字の大蛇神輿と書かれた焼印です。四角い黒塗りの背景に白文字が映えます。右は大蛇の姿をした女神様の焼印です。