パノラマの焼印

パノラマ(panorama)という文字だけの焼印を製作しました。パノラマと言えば見晴らしがよく周りを展望できるイメージがありますよね。フィルムカメラが全盛期の頃、パノラマ機能付きのカメラが流行った時期があります。丁度、コダック社のカメラが日本で一番売れた時期だったと思います。日本のカメラメーカーもパノラマ機能の付いたカメラを一斉発売していました。丁度、カセット式のフィルムが流行った頃でもあり。コダック社のカメラのCMでカセット式のフィルムをカメラにポンと入れてすぐに撮影にかかれ、景色等ととる場合にはワンタッチでパノラマ撮影できると宣伝していました。当時のカメラのフィルムは、パトローネと呼ばれる金属製の筒のようなものに入っていて、カメラに入れる時にパトローネから少しはみ出しているフィルム部分の四角い穴をカメラのフィルム巻き込み機の出っ張りに合わせて挟み込んでから、カメラの蓋をしめて、フィルム巻き込みレバーを何度か回して、フィルムの目盛の所に一枚目を表す1という数字が出てきて初めて撮影できる状態になりましたので、カセット式のフィルムを入れるだけのカメラが出来た時には本当に驚きました。又、普通のカメラには標準レンズした装備していない時代だったので、広角撮影の出来るパノラマ機能が付いた事で撮影範囲も広がったと思います。勿論、当時から一眼レフカメラはありましたし、一眼レフカメラには、広角レンズやさらに広い角度を撮影できる魚眼レンズを取り付けてる事も出来ましたが、一眼レフカメラは高根の花で誰でも簡単に買えない時代でしたので、なおさらパノラマ機能がもてはやされたと思います。当時、写真少年だった私は、キャノンのAE-1という一眼レフカメラを持っていましたが、広角レンズを持っていなかったので、コダックのインスタントカメラを持ち出してあちこちで写真を撮っていました。懐かしい思い出です。

パノラマ焼印
パノラマ焼印の画像

写真は、panoramaの焼印を厚紙に押した時の画像です。この焼印、大きさが幅30ミリ×高さ3.6ミリと小さく、書体も明朝系の作りにくい書体だったので、深彫の印面では作ることが出来なく3ミリの標準彫の焼印で作りました。小さく細い線がある焼印の場合には、紙のような柔らかい素材に押すときには、力加減が難しく、少し力が入ると印面が紙に沈みすぎて黒くなってしまいます。逆に硬くて焼けにくい木材に押し場合には適度に押しやすく感じます。

気球の焼印

小さくて緻密な気球の焼印を作りました。私も一度は気球に乗ってみたいと思っています。数年前にニセコに泊りがけで出かけた時に早朝の気球体験ツアーがあったのですが、天気が悪く中止になってしまい乗りそびれてから尚更強く思うようになりました。よく、何とかは高いところに行きたがると言いますが私もそんな一人です。気球には乗っていませんが、ヘリコプターには乗った事があります。海外旅行のオプショナルツアーでヘリコプターとジープでのツアーがありそのツアーに参加しました。一日がけのツアーで行きは、ホテルまでジープで向かいに来て林道や悪路を走破しながら川ぞいのキャンプ場まで行き、そのキャンプ場でバーべキューを食べて、近くの川に飛び込んで泳ぎました。実は私、漁師町育ちだったので泳ぐことはできましたが、川で泳いだ経験がなくその時に初めて川で泳ぎました。夕方までキャンプ場で過ごしてから、その場にヘリコプターがやってきてホテルまでヘリコプターで帰りました。私は、ヘリの前面の操縦席の隣の席に座れたので興奮していました。操縦席の隣の席は、全面が湾曲した風防ガラスで下の方までよく見えます。又、操縦している人がサービス精神が旺盛で曲芸まがりの飛行をしてくれましたので、私は隣でキャプテンゴー、ゴーと叫んでいました。大変楽しく有意義なツアーでした。同じ空を飛ぶ乗り物でも気球はもう少しのんびりとしておとなしい乗り物だと思います。気球を言いますとどうしてもヒンデンブルグ号の事を思い浮かべますね?ヒンデンブルグ号はドイツの気球で、戦争当時だったので、気球に浮力を与えるヘリウムが確保できずに、替わりに水素を使った事で爆発事故をおこした気球です。当時、ヘリウムの主たる生産国はアメリカで輸出規制があり、仕方なく水を電気分解することで比較的簡単に得られる水素を使ったようです。私も、水の電気分解の実験をしたことがあり、得られた水素を実際に燃やした経験がありますが、ごく少量でも激しく燃えたので驚いてしまいました。勿論、私が旅行先で乗ろうとした気球は別の気球で熱気球と呼ばれるタイプで、積み込んだプロパンバーナーで空気を温めてその浮力で浮くタイプですので安全性は高いと思います。次の機会には是非とも乗りたいと考えています。

気球焼印
気球の焼印画像

上の写真は出来上がった気球の焼印を厚紙に試し押しした時の画像です。この焼印の大きさは対角で15ミリの小さなもので線が混み合っていて焼印として製作出来るかギリギリのデザインと大きさでした。仕様は40Wの半田ごてに取り付けて電気ごて仕様としました。そう言えば、80日間世界一周という映画を見た事があります。あまりよく覚えてはいないのですが、気球で旅をするシーンもあったように思います。白黒映画で今のように飛行機による旅行が一般的でない頃の設定だったので気球がでてきたのでしょうね。

矢印の焼印

矢印(←)を3つ集めてカタカナの(ス)の文字の形にした焼印を作りました。矢印は普段から色々な所でめにするマークの一つで、今、入力中のパソコンのキーボードにもついています。只、パソコンの矢印は、普通、棒の部分のない黒い三角形の部分(▲)の部分だけですが、方向を表しているので矢印といってよいと思います。よく探せば結構色々なものに矢印記号が使われています。いつも利用している自動車にも方向指示器(ウインカー)として矢印が点滅しますし、道路交通用の信号機にも青い矢印がでて行先を指示することもあります。矢印と名前の由来は昔、武器として使用していた弓の矢かたきていると思います。矢は狙ったところの飛ばして相手を殺傷する武器で、先端を鋭く尖らせた矢尻とよばれる金属部品がついており、その矢尻の形が三角形をしていて、その三角形の先端が狙った所に向かって飛んでいく様から矢印が生まれたと思います。そんな弓矢は古代の狩猟民族が栄えた時代から使われており、最初は石を削って作った石器の矢尻や動物の骨を使った矢尻が使われていましたが、のちに青銅や金属の矢尻が出てきて殺傷能力が一段と増しました。今は、狩猟民族も殆どいなくなり、弓矢から銃器に変わってきましたので、アーチェリーや和弓の競技等でしか弓矢を見る事がなくなりました。メタルアートでは、弓の矢に押す小さな焼印を作った事があります。銘を入れる為の焼印で3ミリ×5ミリ位の小さなものでした。

矢印焼印
矢印の焼印画像

上の写真は矢印が3つ集まったデザインの焼印を厚紙に押した時の画像です。この焼印の大きさは、25ミリ角に収まる大きさで、100Wの半田ごてに取り付けて100W電気ごて仕様の焼印をして納めました。

ストーブ屋の焼印

ストーブというと北海道のような寒冷地にはなくてはならない物ですが、九州や沖縄等では必要ないのでしょうね。北海道生まれの私にはストーブに対しては色々な思いがあります。今とは違い、私の小さい頃は、ストーブと言えば一般家庭では石炭ストーブでした。石炭ストーブには火をつけるのも大変で朝の寒い時に、新聞紙を丸めたものと小さく切った薪をストーブに入れて、その上に細かな石炭をさっとまき散らして、新聞紙にマッチで火をつけます。すると新聞紙から薪に火が燃え移り、最終的には細かな石炭が燃え出します。石炭は思ったより火が付きにくいので、薪が必要になります。今でしたら着火剤もあるのですぐにつける事ができると思いますが、なかなか大変です。只、一度石炭に火がつくと簡単に消えないので、その上に大きめの石炭を載せて火力を上げます。石炭ストーブの火力は強く、今の石油ストーブ以上に温まります。しかし、石炭をくべないとならない為に(くべるとは、燃やす為に石炭を入れるという意味です。)時々、ストーブを確認しないとなりません。又、石炭は、石炭屋さんから買いますが、家の場合には、ナヤバと呼ばれる魚を干す場所の下に石炭小屋があり、トラックから石炭屋さんがしょいごで背負って石炭を運んで入れていくので、その後、石炭小屋のなかで、大きな石炭はストーブに入るように砕く必要があり、私も金づちで石炭を割った記憶があります。そんな石炭割も大変でしたが、石炭ストーブを維持するのも大変でした。石炭ストーブは定期的に煙突掃除をしないとなりません。煙突が詰まると、煙突から火の粉がでる事があり、それが火事の原因にもなるという事で、煙突掃除が必要で、竹の棒を割いて細長くした物の先にブラシをつけて煙突に中に通して溜まったススを取り出すのですが、顔も体もススで真っ黒になりながら煙突掃除を手伝っていました。学校も勿論石炭ストーブでした。小学校と中学校までは、用務員のおじさんが朝、生徒が来る前に石炭ストーブに火をつけてくれるので、先生が、時々、石炭をくべてストーブを燃やし続けていました。一斗缶という18リットルの缶にとってをつけたものに石炭を入れていましたので、石炭がなくなると用務員のおじさんに連絡して持ってきてもらっていました。そんな石炭ストーブでもいい思い出も沢山あります。例えば、冬休み明けには、石炭ストーブの上に金網をひいて、その上に餅を載せて食べる事もありましたし、石炭ストーブの上には普段、蒸発皿というトタンで出来た器が載せてあり、湿度を保っているのですが、その蒸発皿の中に給食の牛乳をビンごと入れて温めて飲むことも冬には出来ました。今思えば楽しい思い出になっています。高校まで小樽にいましたが、高校もまだ石炭ストーブでした。只、同じ市内でも新しい校舎の学校は集中暖房が完備されていましたが、私のいた、北照高校はまだ石炭ストーブで、その石炭を運ぶのも生徒が当番制で運んでいました。

ストーブ屋焼印
ストーブ屋焼印の画像

上の写真は出来がったストーブ屋さんの焼印を紙に試し押しした時の画像です。上の文字の部分の下側は円形にカットして丸みをつけてありなかなかお洒落なデザインの焼印です。ウッドストーブと書かれていますので、薪ストーブを製作していると思います。前に、薪ストーブで使うデレッキという鉄のかき混ぜ棒の木製の柄の部分に押す焼印が欲しいという事で作った事がありました。ネットを見てみますとお洒落な薪ストーブが結構販売されていますが、結構、値段が高いので別荘のような建物で使うのでしょうか? 小樽市内に新保さんという薪ストーブを専門に作っている職人がいますが、こちらの薪ストーブは、鋳物ではなく、板金をプレス加工したもので、メタルアートでも一時期、売らせてもらった事があります。これから北海道は寒い時期になるので、ストーブが恋しくなります。
余談ですが、10年位前に、メタルアートで昔ながらの石炭ストーブを小さくした置物を作って販売していました。 焼印をメインにするようになってから置物やお土産品を作る事がなくなりましたが、来年あたりに復活しようと考えています。

舞華の焼印

四角の枠の中に舞華という字が入った焼印を製作しました。綺麗な花が宙を舞い落ちるような情景を思い浮かべました。この焼印を注文頂きましたお客様がどのような用途で使うのかは聞きませんでしたが、何かの名前ではないかと推測します。そう言えばヨサコイソーラン祭りの時に同じような名前を聞いた記憶があります。たしか時代劇の時にも舞華という芸者さんの出てきた番組がありましたね。チョット番組名までは思い出せませんが?舞華の「舞」は踊るという意味もありますね。私はリズム感が良くなく踊るのは不得意ですが、それでもバブル時代にはディスコで何度か踊った経験もあります。お酒を飲んで踊っていたのでぎこちない踊りでも大丈夫でしたが?息子が小学生の頃に札幌に中国の千手観音のような踊りを見に行った記憶があります。見事にそろった舞踊は見ていても気持ちのよい物でした。私自身は学生の頃、クラシックバレエを見た事も何度かあります。実は、クラシックバレエの経験も多少ですがあります。学生の頃所属していた劇団の研究生の時に一週間に一度、バレエの時間がありました。初めての時は黒いタイツ姿が恥ずかしくもじもじとしてレッスンを受けていました。バレエって見た目はきつそうではないのですが、実際にレッスンを受けると1時間でしかありませんが、他の練習事よりハードだと感じました。空手や居合等色々やりましたがバレエが一番大変でした。最も体が硬く、リズム感が悪かったからかもしれませんね。そう言えば、トロカデロという女装のバレエを見に行った事もあります。彼女?達の踊りを見ているとコミカルですが、きちんと基礎が出来ている上で踊っているのが良くわかりました。どんな芸術でも人に見せるという事は大変なんだとつくづく感じました。

舞華焼印
舞華焼印の画像

上の写真は出来がった舞華の焼印を厚紙に試し押しした時の画像です。この焼印の大きさは高さ30ミリで、80Wの半田ごてに取り付けて作りました。白と黒のバランスが良く四角い枠もついているので綺麗に押しやすいデザインの焼印です。

ラブジャパン焼印

love Japanという小さな焼印を作りました。Japanは世界から一目置かれるブランドであり、文化面等からも世界中に人気があります。その根底にあるのは、人との輪を大切にする日本人の気質ではないかと私は思います。確かに技術力や商品開発力等の商業的な魅力も大きいと思いますが、アジアの東端の小さな島国が大戦に負けてから、数十年で復活し、世界有数の経済大国になり、国別の人気度が高いのも、一つの物事を少しずつ根気よく積み上げていく国民性と武士道精神からきている恥の文化によるものだとも言えます。又、第二次大戦で負けたことにより、それまでの機構が一新して新たな出発が出来た所も影響しているのでしょう。只、いい事だけではなく、これからの日本は高齢化による人口減少や、日本人が物質的にも豊かになりすぎたせいで、古きよき日本の国民性も変わってきているような気がします。未来の日本はどこに進むのでしょうか?韓国や北朝鮮、中国といった同じアジアでも考え方も行動様式も違う隣人たちとうまく付き合い続けながら、ロシアやアメリカのような大国との間で立ち回らないとならないでしょう。資源のない日本と言われてきましたが、近年、莫大な海底資源があることもわかってきましたので、将来は資源輸出国になっているかもしれません。そんな日本の一番に資源は日本人そのものだと思います。

ラブジャパン焼印
ラブジャパン焼印の画像

上の写真は、出来がった焼印を厚紙に試し押しした時の画像です。小さな焼印で幅15ミリ程で、100Wの半田ごてに取り付けて電気ごて仕様として製作しました。少しイタリック体のような書体の焼印で、文字が右側に少し傾いています。一度に数を押す焼印でしたので、温度コントローラーと使い大きめの100Wの半田ごてにしました。

鋸状焼印

鋸の刃のギザギザしたような模様の細長い焼印を作りました。メタルアートでは金属を切断するのに金ノコを使っていますので、鋸刃も用途に合わせて何種類か用意しています。焼印自体は真鍮で加工しやすい金属なので、普通の鋼の金鋸刃を使って切りますが、焼印関係でもステンレスやその他の硬い金属材料を切断する時には特殊鋼の金鋸刃を使っています。私が一番気にいっている金鋸刃はスエーデン製のバイメタルと言って二種類の違った金属を電子ビームで溶接してくっつけた刃です。この刃は、硬い超合金鋼と弾力性のある比較的柔らかい鋼から出来ていて切れ味も良く、するどい切れ味が長く続くので使いやすい一品です。只、値段が少々高いので、難削材の時以外は、安い鋼の刃を使っています。安い鋼の金鋸刃の場合、真鍮のような加工しやすい材料でも少し使うと切れ味が鈍くなり使いにくくなりますが、高い刃の1/5位の値段なので取り換えてつかっています。只、切れ味が悪くなると、余分な所に力が入るせいか、切断面が曲がりやすく切り口も汚くなるので精度が必要な場合も切れる鋸刃を使っています。
もう一つのお気に入りの鋸刃は、超硬合金の中でも優れているタングステンという素材を使った合金鋼の刃でこの刃が一番高いので精度が必要で加工の難しいチタンのような素材の時以外はあまり使いません。焼印を鋳造で作っているとどうしても鋳造の具合が上手くなく、鏨を入れて修正する場合が出てきます。この時に使う鏨も超硬合金の物を使っていますので、この鏨の刃を研ぐ場合には、ダイヤモンドヤスリを使う事になります。私の使う工具の中で一番硬いものはダイヤモンド工具になりますが、今は、旋盤用のバイトと呼ばれる刃物にダイヤモンドよりも硬いウルツァイトフッ化ホウ素を使ったものもあるそうです。

鋸状の焼印
鋸状の焼印の画像

上の写真は鋸のように見える焼印を厚紙に押した時の画像です。見方によっては倉庫の屋根が連なっているようにも見えますね。この焼印見た通りに非常に細長く長さは60ミリありますが、高さが5ミリ程しかないので、電気ゴテ仕様で作りましたが熱容量の大きい150W用の半田ごてを使う事にしました。さらに熱の伝わりが良くないデザインでしたので、焼印の印面の彫の深さも4ミリとして台座部分は少しでも熱を保持できるように厚めにしての製作になりました。

小樽気質の焼印

小樽気質(おたるかたぎ)という文字の入った四角い枠付きの焼印を作りました。小樽は山と海に挟まれた地形で平地がすくなく坂の多い街です。地獄坂や職人坂、船見坂等の名前の付いた坂が沢山あり、その地形から、小樽気質が生まれたとも思われます。「向こう三軒両となり」という言葉がありますが私の小さい頃は外出するにも鍵をかけずに出かけたり、味噌や醤油をお隣から借りたりという事があったようですが、今は、違ってきています。又、坂の多い街に住んでいるので、我慢強いのも小樽気質の一つでしたが今ではどうでしょうか?そう言えば私の小さい頃は、家で料理を作る時には多めに作り、隣近所におすそ分けしていました。勿論、返礼に色々な物をもらい、ある意味、物々交換のようなことがありました。又、近所の大人の人もよく子供と遊んでくれていましたので、近所は知り合い同士のような状況でしたね。でも今は、核家族化が進み、人と人に付きあいもあまりなくなったようです。特に昭和の中頃までは、地場産業の中心が漁業でしたので、漁師気質と小樽気質が混ざり合って独特な雰囲気がありました。

小樽気質の焼印
小樽気質の焼印画像

上の写真は出来上がった小樽気質の焼印を厚紙に試し押しした時の画像です。この焼印の大きさは30ミリ角の正方形で100Wの半田ごてに取り付けて製作しました。文字も既成のフォントではなくデザインとして作ったものです。
観光用のお土産品に使う焼印も作りますが、この頃、小樽市内にも革工房が増えてきたようで、革の商品に押す為のロゴや標語の焼印をつくる事も多くなってきました。観光地としては名前を知られるようになった小樽ですが、段々と小樽気質が失われて、普通の地方都市になっていっている気がします。

 

ぞろ目の焼印

一般的にぞろ目と聞くと博打を思う人が多いと思いますが、縁起物として好まれる数字の並びでもあります。今回は、111周年という会社の設立のお祝いの焼印を作りました。会社にはゴーイングコンサーンという考え方があり、成長して継続して事業を行っていくという大きな主題があります。残念ながら起業している人の9割以上は、1年以内に廃業しているという話も聞きます。私も起業して始めましたのでわかりますが、何度か経営の危機に直面することは避けられない事実ですので、どう乗り切るかが問題になってきます。一番大切な事は、自分を信じて最後までやり通すという事になると思いますが、経営状況が悪くなる中でそれを実行するのは大変難しい事です。悪い方へと考えが進んで自分で自分を追い込んでいくことも多々ありましたので、案外、開き直って出来るだけの事をしてあとはなるようになるさという気持ちでいる事が大切になるのだと思います。

 

ぞろ目焼印
ぞろ目の焼印画像

上の写真は、出来上がったぞろ目の111周年という焼印を厚紙に試し押しした時の画像です。ぞろ目でも、1の並びのぞろ目はピンゾロといわれる特別なものです。英語では、snake eyesと言われ数字の1が蛇の目の縦の虹彩部分に似ているからそう呼ばれていると思います。又、数学的にはレピュットともいわれます。ちなみにレピュットとは、11、111、1111等のように1が並んだ自然数の事をいいます。コンピュータの世界でも二進法が使われるので1の並びには重要な意味があると思います。今回、製作しました111周年の焼印は幅45ミリ×高さ12ミリで、100Wの半田ごてに取り付けて電気ごてとして作りました。何周年記念という焼印は結構作りますが、今回の111周年は初めて作りました。

地名焼印

ノースランドという地名の焼印を製作しました。ノースランドとは、ニュージーランドの北島の最北部の地方の名称で、ファンガレイという街が中心都市になります。ニュージーランドというと一番に思うのは羊の肉ではないでしょうか?私はジンギスカンが好きですのでそう思うのかもしれませんね。ジンギスカン鍋は北海道では一般的でしたがこの頃はあまり食べる事がなくなったみたいです。私の小さい頃は羊の肉の方がブタ肉よりも全然安かったのでジンギスカン鍋が好んで食べられていたようですが、近ごろは価格が逆転して豚肉の方がジンギスカン用のラム肉より安くなったのが原因なのだと思います。昭和の頃には北海道人のソウルフードで、特にベルのジンギスカンのタレとの組み合わせは絶品で、バーべキューと言えばジンギスカンだったのですが、今は、食べ物が豊富になり、普通に牛肉を食べるようになったので段々とすたれてきたのかもしれません。それでも我が家ではたまにジンギスカン鍋をしますが、タレに付け込まれたパック式のものを焼いて食べるので、昔ながらの味わいがないのが残念です。ジンギスカンの肉でラムは子羊の肉ですが、マトンと言われる親羊の肉の方が肉質が硬いので価格は安いのですが、私はマトンの方が味が濃く好きです。それと昔ながらの鋳鉄製のジンギスカン鍋も見なくなりました。中心部分が盛り上がっていて溝があるジンギスカン鍋は、余分な肉汁が流れ落ち、美味しいジンギスカンを味合わせてくれましたが、時代の流れか手入れが簡単なホットプレートに押されて姿を消してしまったようです。ラム肉の塊に焼印を試しで押した事がありますが、、油分が少ないせいか肉としては綺麗に押せた事を覚えています。

ノースランド焼印
ノースランド焼印の画像

うえの写真は出来上がった焼印を厚紙に押したときの画像です。幅40ミリの焼印で100Wの半田ごてを取り付けて製作しました。